1990年5月12日土曜日

足利事件(北関東連続幼女誘拐殺人事件)

足利事件


松田真実ちゃん(当時4歳)

1990年(平成2年)5月12日、
栃木県足利市のぱちんこ店から4歳の女児が行方不明となり、
翌5月13日、渡良瀬川の河川敷で全裸の女児の遺体が発見された。

被害者の半そで下着に付着した精液から、
栃木県警科学捜査研究所の鑑定により、
犯人の血液型はB型と判明。

■被疑者の逮捕
1991年12月2日、DNA鑑定の結果などを理由に、
足利市内に居住する幼稚園バス運転手 菅家利和が逮捕。

2007年7月17日、無期懲役判決が確定。

2009年5月、再度DNA鑑定した結果、
犯人は同一人物ではないことが判明。

2009年6月、刑の執行停止、菅家氏が釈放された。

2010年3月26日、再審で菅家に無罪判決がでた。


■課題点
現在と比べ精度の低かった当時のDNA鑑定に頼った捜査、
自白偏重主義による強硬な取り調べ等が後に批判され、
最も有名な冤罪事件のひとつであり、足利事件と呼ばれている。
 
 
 
真犯人は見つかっておらず、今なお未解決。
 

1990年4月3日火曜日

あぁ苦しい・・・悔しい・・

南埜佐代子さん失踪事件

アジアアフリカをめぐる一人旅のなか、
1990年(平成2年)4月、ネパールを旅行中に行方不明になる。

失踪当時29歳(近畿大学3回生)


家族が現地まで足を運んで捜したところ、
ヒマラヤ・アンナプルナ登山口の町、ポカラにあるホテルに、
衣類などの入ったザックが残されたままになっていた。

ネパールの日本大使館は、
「なんらかの事件に巻き込まれたのか事故なのか、断定できる材料はない」といい、
カトマンズの警察本部とポカラ警察署が足取り捜査を進めている。

佐代子さんはアルバイトで貯めた資金を旅費にして、
4月5日に日本を出発した。 
東南アジアから中国、ソ連、中近東、アフリカ、インドを経て、
3月末にネパール入りしていた。

ほぼ週に1度は家族に現在地や予定を知らせる手紙、写真などを送ってきたが、
4月3日にカトマンズから
「4週間くらいの予定でヒマラヤ・アンナプルナ方面へ山歩きに行く」
という内容の手紙を出したのを最後に連絡を絶った。

■本人からの電話
行方不明から4ヶ月後の8月中旬、
自宅に本人と思われる女性から電話がかかってきた。
はじめに妹が出て、すぐ母親とかわった。

相手「(泣きながら)ああ、苦しい。・・悔しい・・・」
母「どうしたの?」
母「どこにいるの?」
相手「(泣きじゃくったまま切る)」


1989年3月7日火曜日

20秒間に行方不明(徳島県男児行方不明事件)


■行方不明者
松岡伸矢 当時4歳


徳島県美馬郡貞光町に所在の親戚の家に来ていた松岡家。
父親・正伸さんが朝の散歩から戻り,
抱いていた下の子を台所にいた母親に預け,
再び玄関に戻ってみると伸矢くんは忽然と消えていた。

その間,わずか20秒である。


www.youtube.com/watch?v=bnWtA7jTnLY

1989年2月28日火曜日

福島女性教員住宅便槽内怪死事件

福島女性教員宅便槽内怪死事件


1989年(平成元年)2月28日の18時ごろ、
福島県田村郡都路村(現田村市)内の小学校に勤める女性教員(23歳)が発見。

住まいとしている小学校に隣接した教員住宅に帰宅し、
トイレに入って何気なく中を覗くと靴のようなものが見えた。
(靴のうち1足が頭部付近にあった。もう一足は自宅付近の土手で発見された)
驚いて外の汲み取り口へまわると蓋が開いていて、中を覗くと人間の足が見える。
すぐに教頭先生ほか同僚の教員を呼び、同僚の先生が警察へ通報した。
駐在所から警察官が駆け付け、続いて村の消防団員と三春署員が到着した。
署員らは便槽から中の人物を引っ張りだそうとするが狭くて出すことができず、
周りを重機で掘り起こし、便槽を壊してどうにか出すことができた。
(便槽は後にSさんの父親が復元して保存している)
便槽の中の人物はすでに死亡していた。
遺体は真冬というのに上半身裸で、
着ていた上着を胸に抱えて膝を折り、
顔をやや左に傾けた形で固まっていた。



死因は「凍え兼胸部循環障害」で、狭い場所で圧迫され凍死。

体にはヒジ、ヒザにすり傷がある程度で目立った外傷も無かった。
争った形跡も無い。
死後硬直の状況から26日頃に死亡したものとされた。
■遺体の身元
遺体の身元は、現場から車で10分ほどの村内に住むSさん(26歳)。
警察はSさんがのぞき目的で便槽内に侵入し、
狭さで出れなくなって凍死したものと判断した。


■不審点
便槽は内径36センチメートルでU字に屈折しており、
自力で侵入するにはかなり狭い。





1989年2月23日木曜日

モールス信号の電話

日高光男さん失踪事件

1989年(平成1年)2月23日、
鹿児島県鹿児島郡十島村諏訪瀬島周辺海域において、
漁船(大昭丸)にひとりで乗船し、海上で操業中に失踪。

失踪当時30歳。

■特定失踪者に登録


失踪当時は、ひとりで元浦港南西漁場において操業。
午後2時ころ、他の漁船に目撃されたのちの消息が不明。

日没後も帰港しないため、諏訪瀬島の漁船、
海上保安庁巡視船、航空機による海上捜索を実施。

翌24日、諏訪瀬島切石港沖合で無人のまま漂流している大昭丸を発見。
すでに燃料切れであったが、トローリングの糸が垂れた状態であった。

行方不明となった1、2年後、
毎晩24時〜25時に無言電話があり、1か月ほど続いた。
電話の内容は、無言であったが、
モールス信号のような音が聞こえたという。

1988年3月18日金曜日

妊婦の腹部に電話機

名古屋妊婦切り裂き殺人事件



守屋美津子さん 当時27歳

1988年(昭和63年)3月18日午後7時40分ころ、
愛知県名古屋市中川区富田町のアパート2階の自室居間において、
青いマタニティドレス着て、ピンク色のジャンパーを羽織った
妊婦(当時27歳)が殺害され、仰向けで倒れているのを
帰宅した会社員の夫(当時31歳)が発見した。

妊婦は両手を縛り上げられており、
首に電気コードを巻かれ、絞殺されていた。

鋭利な刃物で、下腹部からみぞおちにかけて
縦38センチメートル(深さ2.8センチメートル)
にわたり切り裂かれていた。

足元にはへその緒をつけたままの赤ちゃんが泣き叫んでいた。
へその緒は切断されていた。

妊婦の子宮内には、
コードを切り離したプッシュホン式の電話の受話器と、
ミッキーマウスのキーホルダーが付いた車のカギが入っていた。

妊婦の財布はなくなっていた。
他の金品には手が付けられていなかった。

取り出された胎児は男の子で、
太ももの裏、ひざの裏、睾丸の3箇所を刃物で切りつけられていたが、
病院で約1時間の手術を受け、一命を取り留めた。

絞殺の凶器は、首に巻かれたコタツのコードとは別物で、
コードが巻かれたのは死後とされている。
コタツのプラグは、コンセントに刺さっていた状態だった。

■当日の状況
臨月の妊婦は、予定日の3月13日を過ぎていた。
夫が当日の午後1時10分ころ、自宅に電話を入れた時は元気に出ていた。

午後1時50分ころ、サイドビジネス(アムウェイ)で
家庭用品の販売をしていた妊婦宅には、
近所の主婦が子連れで訪問し、脱臭剤(約2000円)を購入している。

午後3時ころ、妊婦は階下の駐車場まで主婦を送っていったが、
この間、玄関にはカギをかけていなかった。

訪問した主婦が持参したイチゴを一緒に食べたが、
発見時にもその食器がコタツの上に置かれたままだった。

仕事を終えた午後6時50分ころ、
夫が自宅に電話をかけたが、出ることはなかった。

夫が帰宅した際、いつも施錠されているはずの玄関はドアが開いていた。
室内は電気がついておらず真っ暗だった。
赤ちゃんの泣き声が聞こえた。

電話機はいつもの場所になかったため、
夫は階下の部屋で電話を借り、119番通報をした。


■死亡推定時刻
胃の内容物から午後3時すぎとされた。

■不審人物
階下に住む主婦によると、当日の午後3時10分〜20分ころの間に、
自宅玄関のドアノブを何者かにガチャガチャ回される音がしたという。
チャイムを鳴らされたため、出てみると、
30歳前後、身長165センチメートルくらいの
サラリーマン風の小柄な男がおり、
「ナカムラさんのところを知りませんか?」と聞いてきたという。

主婦は気味が悪いので、すぐに「知りません」と言ってドアを閉めた。
この男は現場付近で何人かの人に目撃されていた。
近鉄戸田駅方面からアパートやマンションを
一軒一軒うかがうようにして歩いていたという。
警察はこの男の行方を追ったが、足取りはつかめていない。

■犯行現場
台所では血を洗い流した状況が認められた。
腹部を裂いた刃物は、現場からは発見されなかった。

■遺留足跡
犯人は、土足侵入しており、
現場に遺留された足跡は、大きさからして子どものものではなかった。


■時効
有力な手がかりがないまま、
2003年(平成15年)3月18日に公訴時効が成立した。

世間の好奇の目にさらされ続けた夫と子どもは、
1999年(平成11年)に日本国外に移住している。



現場のアパート


1987年12月9日水曜日

対ソ連軍領空侵犯機警告射撃事件

12.9警告射撃事件


自衛隊戦闘機が初めて警告射撃を実施した領空侵犯事件


■1回目
1987年(昭和62年)12月9日午前11時ころ、
ベトナムからソ連に向かっていた偵察機4機が
日本の防空識別圏を越えたため、
那覇基地所属の戦闘機(F-4EJ)2機がスクランブル発進した。

自衛隊戦闘機が警告の後、針路変更させようとするも、
1機は従わず沖縄本島上空に接近した。

沖縄県沖縄本島上空の領空に侵入し、
在日アメリカ軍嘉手納基地上空を通過。
同日午前11時24分、自衛隊戦闘機が警告発射を実施した。

■2回目
同日午前11時41分、鹿児島県沖永良部島徳之島付近上空に
ソ連機が再度侵入したため、警告射撃を実施した。


■各国の対応
日本政府は、外務省を通じてソ連政府に厳重抗議した。

ソ連政府は悪天候と計器の故障による事故であったと発表。
ソ連政府は、編隊機長を1級降格、
搭乗員2名を戦闘機搭乗停止処分とした。

当時、アメリカ軍は上空で戦闘機を待機させ、
事態を一部始終把握していた。